懐かしい未来ネットワークMLに参加のみなさま、リプトンです。懐かしい
未来からのメールマガジン第二号です。
いよいよ、明日から第二期EDE(エコビレッジデザインエデュケーション)がアジア学院で始まります。全参加はスケジュール的にも、予算的にも厳しいという方には、興味のあるカリキュラムだけを受講する部分参加も可能で す。受講料は2泊3日のコースで4万円となっています。興味ある方は、ぜひ参加ください。
第1回の『 オリエンテーション&エコビレッジ概論 』では、「ホリステイックなデザインの意味」「エコビレッジ・デザインの基本的な考え方」を学びながら、「参加者間の自発的なコミュニティづくり」を促進していきます。講師にECOMの森良さんをお迎えし、「地域におけるコミュニティづくり」というテーマの講義を行います。また、GENOA日本大使古橋道代さんには、「エコビレッジの紹介と目指す未来」として、海外、日本のエコビレッジの取組みと課題、地域コミュニティづくりのアプローチと課題、コミュニティ・ファシリテーション力についての講義・ワークをしながら、参加者がコミュニティについて考えていきます。
そんな方々に本当にオススメのプログラムです!!
お申し込み・問合せ先 E-Mail: edejapan2010@gmail.com
詳しくはURL: http://www.ede-japan.orgをご覧ください。
前号でも紹介したダマヌールのレポート2回目です。今回は、設立とビジョン、社会構造についてお送りします。
ダマヌールは、1975年に、創設者となるオベルト・アイラウディ(通称:ファルコ)氏が、精神性やその実践方法(瞑想やヒーリングなど)について勉強会や集会を始め、その時に奇跡的に出会った13人(ファルコ氏と12人)の仲間から始まっています。「13人の夢から生まれた」ダマヌールは、『光の都市』を意味し、古代エジプトの都市(エジプト北部に現存)に由来しています。
ファルコ氏は、幼い頃から並外れたパラノーマルな才能やヒーリングの能力を発揮し、哲学者、ヒーラー、著述家、画家としても有名な方で「メディテーション(瞑想)」というタイトルで精神性についての哲学を大系的にまとめ、学習プログラムを行ったり、本を出版しています。
2日目に、他の海外からの見学者と一緒にファルコさんとの質疑応答の時間に参加することができましたが、気さくな感じで、いろいろな質問に答えて頂きました。なんと、大変幸運なことに、質疑応答の後に、日本から来た見学者全員が、ファルコさんから直接セルフィック・ヒーリングを受けることができました。ファルコさんはとても多忙なので、このように時間をとってもらえることはめったにないそうです。
精神性の核となる考え方として、
の3つがあり、コミュニテイの発展やプロジェクトを実践するための重要な指 針になっています。
ダマヌールでは当初、1か所に数十人の小さいグループ単位で暮らしていました。規模が小さいうちは、暮らしに必要な社会的な取り決めも必要最低限なものでよかったのですが、ダマヌールの中心部や渓谷の周辺に150人もの人が住むようになり、コミュニティが大きくなるにつれ、社会的、経済的な安定(システム)や、ダマヌール憲法が必要になってきました。
1つのグループは、通常大きな家や集合住宅に12~15人が一緒に住んでいて、安定した社会的、経済的な基盤(自治権)が整うとコミュニティ(ヌークレオ・コミュニティ)に昇格します。当初は、初期段階の3つのグループと中核となる2つのコミュニテイで、さまざまな事業を行っていましたが、グループやコミュニテイを精神的、社会的、経済的につなげるため連合体がつくられ、後にダマヌール憲法が公布されました。
現在は、40以上のグループと、約20のコミュニテイがあり、1つのコミュニティは、約600ヘクタールの土地を所有し、25km圏内に点在しています。各コミュニティは独自のプロジェクトを持っていて、平均約20人ほどのメンバー(血縁関係は問わず)が、生活費や社会的責任を共有しながら1つの家族のように暮らしています。
現在、ダマヌールの市民はA~D市民まで分かれていて、サポート市民を含めると1000人におよびます。
A市民(300人)は、ダマヌールに住み、すべての財産を共有しています。B市民(300人)は、週末など週3日ほど住む部屋をダマヌールに持っていて、プロジェクトなどにも協力します。A、B市民とも、連合体の社会機構(メディテーションの学校、社会組織、ゲーム・オブ・ライフ)に関わっています。C市民(メディテーションの学校に参加)、D市民(学校には参加していない、海外在住も含む)は、ダマヌールには住んでいませんが、ダマヌールの精神性を共有するサポート市民(400人)で、その内、神殿建設などプロジェクトのみに参加する人もいます(300人)。
次回は、精神性や社会組織、教育、福祉などについてレポートします。
<レポート 林悦子>
今月の「懐かしい未来への100冊」は、今年の7月に来日し、日仏会館などで講演を行ったフランスの経済学者・思想家セルジュ・ラトゥーシュさんの著書『経済成長なき社会発展は可能か? <脱成長>と<ポスト開発>の経済学』(作品社)です。講演会そのものは、一般的なお話しが多く、<脱成長>という概念もよく分からなかったのですが、その際に購入したこの本を読むにつれ、「これは、僕たちが考えていたこと、言いたかったことを、実に的確に言い表してくれている本だ!」と気付いたのです。グローバリゼーションと新自由主義の跋扈によって、世界中の人々が経済的に精神的に受けているダメージ、環境が受けているダメージ、そしてそこからの離脱の道筋を明るく照らし出してくている。そんな感想を持っています。もちろん、この本さえあれば、ローカリゼーションへの道筋は明るい! などと思っているわけではありません。それは、ひとりひとりの行動を通してしか実現できないし、セルジュ・ラトゥーシュさんも何度も指摘しているように、新しい倫理、新しい精神をひとりひとりが宿すことこそ、重要なのだと思っています。それでも、ローカリゼーションへの道のりの中で、避けて通れない経済成長の考え方、あるいは経済衰退の考え方に、大きなヒントを与えてくれていると思えるのです。近いうちに、この本を題材にして読書会なども開ければいいな、と思っています。その際は、ぜひご参加ください。対し、日本では肯定的な学生は4割にも満たないのです。
というわけで、この本、実はこのMLに参加している全ての人に読んで欲しいとも思っているのですが、かなりの大著で、価格も2800円となかなかで、訳文も丁寧なのですが、「誰が読んでも分かりやすい」というシロモノでないのも確かです。そこで、260ページを超える本文から、エッセンスと思われる部分を抜き出しながら、<脱成長>の概念を紹介したいと思います。メルマガの1コンテンツとしては驚くほど長くなってしまいましたが、ぜひお付き合いください。
本書の大まかな構成は、経済のグローバリゼーションにより、どんな弊害が出ているか? それを解決するための「持続可能な開発」などのさまざまな形容詞付きの「開発」プログラムの無効性、弊害を訴えています。そして、私たちが生きのびるための戦略としての<脱成長>という概念の説明。<脱成長>のための8つの再生プログラム。最後が、<脱成長>を実際の政策として実現するための考察、となっています。なお、本文中の「」内の文章はすべて『経済成長なき社会発展は可能か?』からの引用で、ページ数を付記しています。
まず、ラトゥーシュは、現代の社会を「悪魔の輪舞を踊り続ける消費社会」と位置付け、それが存続するための3つの条件を挙げています。それが、「消費欲を刺激する宣伝広告、消費手段である信用貸し付け、そして需要を更新するために生産物を短いサイクルで計画的に使用不可能とすること」(pp151)です。つまり、現代社会では、本当に必要なものを買うことは、全消費の中ではごく一部であって、実際には直せばまだ使えるものを買い換えたり、ほとんど不要と思われるものが欲しくてたまらなくなったり、まったく不要なものを気まぐれで購入したりしているのがほとんどといえます。それが、経済を動かしているといってもいいでしょう。みんなが本当に必要なのしか買わなくなったら、とたんにこの世界は異様な停滞感に襲われてしまうはずです。それを防ぐために、車離れの若者に無理矢理車を買わせるエコカー補助金や、高価な新製品を交わせるためのエコポイントなどの施策があったといえます。それはともかく、消費を煽ることは、消費社会の最大の目標です。それを達成するために使われるのが広告です。
「85%(の社長)が、広告は「頻繁に」人々に不必要なものを購入させる効果を持つと断言し、(中略)さらに51%の社長が、広告宣伝は人々に本当は欲しくないものを買いに走らせると言っている。宣伝広告によって基本的なニーズが忘却されるのだ。(中略)地球全体で合計すると、年間の広告支出は5000億ユーロ(65兆円)以上にのぼる。(中略)その結果(企業によって使われた広告費は消費者が支払わなければならないので)、消費者は、年間500ユーロ(6万5000円)の広告費を払わなければならない」のである」(pp152 括弧内はリプトン)。
そして、商品が欲しくなったときには、お金が無くても大丈夫。カードで払えばいいのです。でも、これは実際には借金。借金漬けになっているのは個人ばかりでなく、企業や、国も同じことです。
「所得が不十分な人々に消費させ、必要な資本を持たずとも企業家に投資を促すために貨幣や信用の貸し付けが利用されるが、北側諸国においては経済成長の強力な「独裁者」である上に、南側諸国では北側諸国以上に破壊的かつ悲劇的な威力を持つ。この貨幣の「悪魔的な」論理は常により多くのお金を稼ぐことを目指すものだが、これはまさに資本の論理に他ならない。「複利のテロリズム」は、常に利潤の追求を至上命題とし、「投資に対するリターン」「株主にとっての価値」、「経費削減(コスト・キリング、ダウンサイジング)」を武器に、コスト・キラーを英雄視し、経済的負担を最大限外部化し、重荷を労働者、下請け企業、南側諸国、顧客、国家、公共サービス、将来世代に巧妙に転嫁できる経営者がよき経営者とされる」(pp152)。
ここは、日産のゴーン社長を思い浮かべれば十分でしょう。経営立て直しの柱は地獄のリストラでした。そして、8億とも9億ともいわれる年収を手にしています。その他、2010年の前半だけで判明した1億円以上の報酬を取る会社役員は290人といわれています。
「1人あたりの国民総生産(GNP)成長率を3.5%とするならば、GNPは1世紀の内に31倍になり、2世紀のうちに961倍となる。10%の成長率ならば(現在の中国の成長率である)1世紀のうちに国民総生産は736倍になる。経済成長が自動的に物質的に充足した生活を生み出すのなら、今頃われわれは真の楽園に生きている筈である。しかし実際のところわれわれは地獄で苦しんでいる」(pp157)。
よくいわれることですが、有限な世界の中で無限の経済成長はあり得ないのです。経済学者は3%成長で、ようやく実質上はゼロ成長だといいます。金利分を差し引くと、そういうことになるのかもしれませんが、その3%をどこから持ってくるのか? 環境から、そして貧しい人たちをより貧しくすることから取っているように見えます。成長路線に未来がないことは、エコロジカルフットプリントの観点からも明らかといえます。
北側諸国で進む、経済的な貧困化、文化の破壊、脱政治化。大規模店舗、自動車、テレビの普及は、市民性を破壊し、言葉を持たず、多国籍企業と結託したメディアに操作される「第二市民」を量産し、ポピュリスト政治家の暗躍を許すことになってしまいました。日本では小泉純一郎、イタリアでは、ベルルスコーニ。連帯からエゴイズム、福祉国家を解体する新自由主義的な政治的反動を許すことになっています。ゆえに<脱成長>の企ては、「政治的なるもの」を再興する必要があるとセルジュ・ラトゥーシュは主張します(pp166)。つまり、再び、あるいは初めて、市民が政治に積極的に参加することが必要とされるということなのです。
「1986年以来グローバリゼーションを軌道に乗せてきた金融市場の3つの経済発展政策――規制緩和、ボーダーレス化、間接金融から直接金融への移行――によって、国家による規制の枠組みは解体し、その結果不公平のゲームが際限なく展開するようになった。地域間および諸個人の間で富の分極化が尋常ならざる水準まで達したのである。1998年の国連開発計画の報告書によれば、1950年以来、世界の富は6倍に増加したが、国勢調査を受けた174ヶ国のうちの100ヶ国の住民の平均所得は著しく減少している。世界の最も裕福な3人が所有する資産は、最も貧しい48ヶ国の国内総生産を合計した額よりも大きい! 最も裕福な15人の資産は、サブサハラ・アフリカ全体の国内総生産を超過している。世界で最も裕福な32人の資産は、南アジア地域の国内総生産を超えている。世界で最も裕福な84人の財産は、12億の人口を要する中国の国内総生産を凌駕している。最後に、最富裕層225人の財産は1兆ドルであり、世界人口のもっと貧しい人々の47%、つまり25億人の所得に相当するのだ!『世界開発報告書2001年版』によれば、世界人口の最も裕福な20%が、富の86%を所有している一方で、最も貧しい20%は1%の富を所有するのみである! 最後進国全体(6億900万人)の総所得は億万長者200人の資産の約15%(1兆1350億ドル)であるが、それは別の言い方をすれば、上から数えてたった3人の億万長者の総資産に等しい!」
(pp34)。
これは、僕の見方ですが、新自由主義的な施策により、世界中が植民地化したのではないかと思っています。つまり、世界中のお金持ちが世界中の残りの人々を植民地化している。例えば、日本の大手自動車会社が利益を上げます。その利益は、社員への分配に回ることなく、また新規の雇用に使われることもなく、株主への配当に回るのです。その株主の有力なものは、国内・海外のいわゆるヘッジファンドで、それはごく一部のお金持ちの出資によって成り立っているものです。つまり、そこにお金が吸い上げられていく仕組みができあがってしまっているのです。
新自由主義とグローバリゼーションは、下記の様な問題を引き起こしています。
こうした事態に対し、反グローバリズムの論客も、政治家も、南側諸国の「開発」が必要である、という点では意見が一致しています。しかし、そうした「開発」の多くは、例えば1日1ドル以下で暮らす人を減らすことが目的で、結果的に経済成長を、そして「経済の離陸」を南側諸国で起こすことが目的であり、北側諸国の後追いをさせようとしているに過ぎない。そして、持続可能な発展という概念も、持続可能性についての議論を曖昧なままに使われるケースがほとんどで、経済成長を目指すものである以上、認めるわけにはいかない。
南北がともに、持続可能性を手にするには、<脱成長>戦略しかないということです。
「<脱成長>は、マイナス成長ではない。「ただ単に成長の速度を緩めるだけでは社会が混乱に陥ることは周知の事実である。失業は増加し、必要不可欠な最低限の生活の質を保証するところの社会、保険、教育、文化、環境の各分野におけるプログラムを破綻させることになる。マイナス成長率がどのような惨事を生み出すかは想像がつくであろう! 雇用のない労働社会ほど最悪なものないのと同じように、成長を約束できない成長社会ほど危険な社会はない。(だが、)われわれが自らの社会がたどってきた道筋を変えないかぎり、社会と文明のこのような後退は必ず起きる。ゆえに<脱成長>は「<脱成長>社会」においてのみ、つまり[成長概念とは]別の論理に基づいた体制においてのみ思考可能であるといえる。ゆえに選択肢は「<脱成長>か野蛮か」である!」(pp140)
この部分が、僕がもっとも意を強くしたところです。つまり、人々が幸せに生きるためには、経済成長は必要ではない、むしろ経済衰退こそ必要なのだ、というのが僕らの主張だったのです。ただ、その前に、食料とエネルギーの地域での自給(つまりローカリゼーションの完成)、もしくは国内での自給を済ませていなければなりません。というのも、今の日本がそのまま経済衰退していまうと、国債の利率は上がり、やがては買い手がつかなくなり、つまり日本は債務過剰国になり、IMFの再建プログラムを受け入れざるを得なくなります。年金や生活保護はカットされ、餓死者が続出ということになりかねません。食料もエネルギーも海外から買わなければなりませんが、いまや円は紙切れ同然、という最悪のシナリオです。そして、もし<脱成長>のプログラムを実践しない限り、つまり、このまま成長社会を続けていれば、世界中で、餓死者が出るような「崩壊」が起きると予言しているのです。
セルジュ・ラトゥーシュは、<脱成長>のための8つの再生プログラムを示しています。これらは、すべてフランス語の「re」で始まる単語でまとめられています。
それぞれの内容を見ていきましょう。
以上の8つの中心に位置するのは、再評価と削減、再ローカリゼーションといえるでしょう。そして、再ローカライズされた世界を下記のようにイメージします。
「エコロジカルな社会は、複数の小規模自治体によって構成される一個の自治体――さらに小規模自治体のひとつひとつは<複数のコミューンの集合体から成るコミューン>によって構成されており、それぞれの自治体はエコ・システムと完全に調和している――によって構成されると考えることは、決して馬鹿げた発送ではない」(pp186 マレイ・ブクチンからの引用)
コモンズの再生、生物域(バイオリージョン)の自己組織化などは、ローカリゼーションの戦略の一端といえます。そして、下記のような実例を挙げています。
イタリアの「コムーネ=新しい自治体」のネットワーク(自覚的で責任のある自律自治のプロセスを奨励し、また、グローバル市場の見えざる手という外部からの操作(他律的な管理)を拒否しながらも、地域の資源および特性を価値づける政治的なプロジェクト)、アーバン・ビレッジ、スローシティ。
こうしたプロジェクトは、地域に深く根差しながらも閉鎖的でも自己中心的でもなく、むしろ逆に開放性、さらには(域外の他者に)贈与することや(域外の他者を)受け入れることといった寛容さを前提とします。
ただし、
地域と共同体について語る者は「ファシズム、ナショナリズム、男性優位主義、家父長主義、エリート主義、懐古趣味などなど、大文字の近代化が排斥したあらゆる名前によって扱われるリスクを負う」(マイケル・シングルトンよりの引用)というマイナス面には常に十分な注意を払う必要があります。
「地域は閉鎖的な小宇宙ではなく、経済自由主義の支配への抵抗を可能にするような、民主主義を強化する諸実践(例えば参加型予算)を試みるための、有徳性と連帯感をともなう横断的な様々な関係のネットワークにおけるひとつの結節点である」(pp190)という一文は、僕自身も自信をもって他の言葉で置き換えられない、という意味で完全に理解しているとは言いがたいのですが、地域地域が食とエネルギー、そして経済に関して自給体制を整えられればそれで良しというわけではなく、非人間的な力による支配に対抗するためのネットワークの構成要素となっていく社会をイメージすることができます。さらに、ラトゥーシュは、食、エネルギーの地域での自給や有 機農業の実践、ローカルビジネスの奨励などに関して、地域通貨の効用を説いています。
「(開発の遭難者たちが紡ぐ)連帯ネットワークでわれわれが目にするのは(中略)、経済的なるものの社会性への再組み込みのプロセスである。
(中略)社会関係は交換の上に機能する。しかし交換は、貨幣をともなうものであれそうでないものであれ、市場よりも互酬性に基づくものである。マルセル・モースが分析したように「与え、受け、返す」という3つの義務に直面する。この贈与の論理において中心的かつ根本的なものは、関係が財にとって代わるということである。それゆえにヴァナキュラー(土着の、民衆の リプトン注)な社会においては経済が社会的なるものに、再び組み込まれ、贈与の論理に従って機能することが明瞭に現れるのである。まさにこの点にこそ、生存を余儀なくされた状況から生まれた<ポスト開発>のローカルな形態が存在するのである。北側諸国が<脱成長>を行うことは、これら南側諸国の新しい社会身に迫ってくる飢餓、感染病、独裁政治、市民戦争を逃れることを可能にするために必要な条件である。
北側諸国では、国民を形成するものとその後ろ盾となる行政が相対的に後退したことによって諸々の制約が緩和され、経済的な共同作用を生み出すことを可能にする文化的な興隆が引き起こされ、「地方的なもの」と「ローカルなもの」は再び活性化している。余暇・健康・教育・環境・住居および対人サービスが生活基盤のミクロでローカルな水準で管理されている。(中略)それは新しい農家、新しい農村生活者、新しい職人と呼ばれる人々の誕生である。自主管理を行う協同組合企業、新興農村共同体、保管通貨システム(LETS、SEL)、時間銀行、選択的時間、都市の貧困地区の自主管理、親の自主管理託児所、自主管理商店、職人組合、農民による農業、倫理銀行
または信用リスクのための共済組合、フェアトレードおよび連帯貿易運動、消費者アソシエーションなどなど、無数の非営利アソシエーションの誕生を確認することができる。(中略)
グローバル経済に対抗する共謀の領域の延長と深化は成功の秘訣であり、これらオルタナティブな企てが最初に配慮すべき点である。消費者活動家(市民的意義を持った消費者)は地域交換システム(SEL)、オルタナティブな生産者、新しい農村生活者、そしてこのようなオルタナティブな道に真剣に取り組んでいるアソシエーション運動を接合する、全体にとって鍵となる要素である。(中略)重要なことは、社会的な抵抗を、エコロジカルな抵抗ならびに北側と南側の排除された人々に対する連帯と連携させ、さらにはあらゆる協同的なイニシアチブとも連携させることである。そうすることで抵抗と離反の運動を接合し、最終的には共に生きる喜びを分かち合う<脱
成長>を実現する自律社会にいたるのである。このようにしてわれわれは、(中略)グローバリゼーションが陽の光の下で壊した社会関係の網の目を夜半に紡ぎ直すのである」(pp118)。
<脱成長>とは、「耐え難い不平等によって悪化する極貧生活に戻ることではなく、生きられた経験として現れる充足した生活を手に入れること」です。つまり、共に生きることの喜び(イリイチのコンヴィヴィアリティ。ちなみに、ラトゥーシュは「コンヴィヴィアリティ」を「ジャングルの方にしたがう社会的交換に贈与の精神を再導入し、アリストテレスのいうところの「友愛」に立ち返る」と説明しています)を至上の財産とする社会といえばいいでしょうか。さらに、南側との関係では、下記の様に書いています。
「北側諸国における<脱成長>こそ、南側諸国においてあらゆるオルタナティブを実現するための(必要)条件である」。
つまり、南側から搾取せず(南側に頼らず)、北側がきちんと自立することこそ、南側の<脱成長>プログラムを可能にする最大の条件だということです。

『経済成長なき社会発展は可能か?』セルジュ・ラトゥーシュ著 作品社
2800円+税